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ペットロスから癒しに至る過程

ペットロスから癒しに至る過程

ペットが亡くなっても、人を失った時と同じように悲しみを理解してくれない人も残念ながらいます。
多くの人が周囲の人から理解してもらえないように、ペットロスというものが認知されているほど社会は成熟しておりません。
ですから「たかがペットのことで…」「また飼えば…」と言うように、思われたりしているのです。
人の子供が亡くなって、その両親に対して「たかが子供の事で…」「また産めば…」などと言うように人はいません。 どちらも同じく代わりのいないかけがえのない子たちなのですが、それがペットとなると悲しみが理解されないことがよくあるのです。
人の葬儀・供養となると会社を休み慶弔扱いとなり、周囲の者たちから慰められのに、ペットの葬儀・供養となると、同じ事をしているのに奇特なことと思われたり、軽く扱われたりしてしまう事実もあります。
さらに、人間関係でうつ病になるのは普通で、ペット関係でうつ病になるのは異常かのように、見られ事もあるのです。

これら全ては対象が人であるかないか、大きいか小さいか、というような違いや比較で差別されてしまっています。 心に思いを抱いているのは同じ人なのに、扱われ方がこうも違ってしまうのです。
このように、わかってくれているようで、理解されておらず表面的には分かってくれても、経験しなければ理解できないこともあり、ペットロスの悲しみは十分に理解されているとはいえません。
ペットロスは特殊な人がなるものではありません。むしろ心のある人がなるもので、ペットを人と同じく差別することなく愛した者たちが通る道だといえます。
人が抱く愛情や悲しみに違いはないのです。
見た目の違いに囚われがちな人間が多い中で見た目の違いを超えて同じく愛せた者たちはより豊かな人生を歩んでいるのです。
豊かな人生を歩んできたからこそ、人知れない大きな悲しみがあるものなのです。
この大きな悲しみの現れとして「失礼なことなのでしょうけれども、親を見送った時よりもペットを見送る方が悲しみが大きいのです」
ということを耳にしますが、これは失礼なことなどではなく、関係性が違いますので、そういうこともあります。 なぜなら、人の葬儀でも親を見送るのは順当である程度諦めもつきますが、幼いわが子を失うことは親にとって一番辛い別れであるように、ペットのことを「うちの子」と読んエいる人にとっては姿は違っているにしても同じような関係になっているのです。
ペットが亡くなるのもわが子をなくす親の気持ちと同じような心情ですから、親を亡くすよりも悲しみが大きく感じられることが間違いではないのです。
まあた人の場合は葬送・供養の儀があり多くの者たちで悲しみを分かち合うので、一人で背負う悲しみの心理的な負担が軽くなりますが、ペットのが場合は悲しみを分かち合う相手は少ないので、その分の心理的な負担がおおきいこともあります。
さらに大きな違いでいえば、ペットとは言語体系が違いますから、ものを言わないだけで悲しみが深い事がうかがえます。

この悲しみはいくつかの段階を経て癒しに至るもので、人によっては順番が異なることもありますし、「三歩進んで二歩下がる」こともありますが、徐々に回復していきます。
これから記す感情の経過を知る事により、悲嘆する心に一筋の光が見えてくれればと思います。

第一段階 否定

ペットロスから癒しに至るまでには、まずはペットの死を現実のものとして受け入れることから始まります。 「さっきまで生きていたのに…」「まさか…」「そんな…」というように、最初はなかなか受け入れることができないものです。
そして、現実を認めたくないという思いから「夢であってほしい」「何かの間違いであってほしい」と考えますし「もしかしたら生き返るのではないのか」と祈ることもあれば「もし生き返らせてくれるのなら~します」と神仏に条件を提示して願うこともできるかもしれません。
人は知性によって未来を想定しますが、ペットの年齢や体調によっていつか別れる日がくると頭では分かっていてもまさか、本当にこの日がくるとは思ってもいないものです。
まして、まだ若く元気だったのであればなおさらです。
私たちの想定は結局のところ人の思い込みにすぎないのであって、「命の時」そのものは、天の計らいですから人には、別れが突然やってくるように思われ、否定したくなるのも無理はありません。
また詩を認めて受け入れてしまったら本当に、死んでしまったという、現実をみたくない思いもあって素直に詩を受け入れるのは難しいものです。

第二段階 後悔

愛するペットが亡くなったという現実を受け容れるとその悲しみに涙するのと同じく後悔や自責の念などが起こります。
ペットの命は飼い主が預かっているようなものですから、自分のとった行動や選択に後悔してしまうこともあるでしょう。

後悔の中では多いのは「あの時~していれば…」というように、過去の選択肢とは別のもう一つの方を選べば結果が変わっていたのではないかとい思いで、選ばなかったもう一つの選択肢とは別のもう一つの方を選べば結果が変わっていたのではないかという思いで、選ばなかったもう一つの選択肢の方がなかったと思ってしまうことです。
次いで多いのは自分を責める気持ちで「私のせいで…」というように、その時にできることをしていたとしても、結果として亡くなってしまったことによって、自分の取った行動を悔いて責めてしまうことです。
また公開には怒りを伴う場合もあります。
例えば「手術で助かると言ったのに…」
「大丈夫って言ったじゃない」というように、病院で亡くなれば自責の念が病院スタッフへと転嫁され、怒りという形に変わりますし、家族で意見の相違があれば「だから私は違うと言ったじゃない」「あなたがそう言ったから…」というように、怒りは身内に向けられることもあります。

こうして、後悔は自分んに向けられたものか、他人に向けられたものかによって様相が変わってきます。
また人へ向かうだけでなく、ものに向かうこともあれば「何も悪いことをしていない子がなんで死ななければならないのか」と祈ったり願ったりした神仏に向けられることもあります。
このような強い感情であることから、必要以上に自分や他人を責めてしまうこともあり、受け止められる分を超えてしまうので、受け入れることがなかなか難しく、時間がかかるものになるのです。

第三段階 悲しみ

これらの激しい感情が少し穏やかになってくると、今度は「悲しみ」という悲嘆と向き合わなければなりません。 この時は感情的に静かではありますが、もっともさみしさを感じる時でもありますので、この時期こそが辛いかもしれません。
よく言われ言葉ですが、「心にぽっか穴が開いてしまったようだ…」というようにこの時期はとてもつらく切ないものです。
いつも一緒にいるのが当たり前で幸せを与えてくれ辛いときは支えてくれそうして愛情を分かちあってきた子が目の前にいないということがしみじみと感じられ、帰宅したとき、くつろいでいる時、ご飯の時間、散歩の時間、寝る時などに違和感や虚無感を抱き愛するペットがいかに大きな存在であったのか、どれほど支えてくれたのか、こんなに愛しい者であったのかと素直に実感するのがこの時期なのです。
この時期ほど悲しいものや寂しいものはなく、穏やかな感情であることもあって心にさされるかのように痛く感じることがあるものです。
このような穏やかな感情の時もあれば後悔や自責などの激しい感情の時もあり、これらを繰り返しながら次第に時間の間隔が空いてきて、徐々にではありますが、悲しみを受け止めれるようになってきます。
ここまでくるのは、悲しい気持ちに表に出して心を抑圧せずに十分に解放してあげることが大切です。
悲しいときには涙して辛いときには苦しんで後悔していることは素直に謝りこのようにしてあるがままを受け止めペットのいないことをきちんと受け入れて新しい生活に適応してゆかなければなりません。

この過程の手助けとしてきちんと供養すること、思い出して泣くこと、誰かに話してみること同じ悲しみを抱く人の話を見聞ききすること、アルバムや日記・ホームページなどに思い出をつづる事、愛用品や遺品を整理すること、体を動かして気分を発散させること、カウンセラーに相談してアドバイスを受けること新しいペットを迎えることなど人によって何が助けになるかはそれぞれですが、行動してゆくことで心も徐々に変わってくるものです。
こうして行動することを通じて、心と体で受け入れるようになり気持ちが整理されてゆきます。

第四段階 受容

時の経過とともについ感情は穏やかになり、繰り返し悔いることも少なくなってきて複雑に絡み合っていた感情は徐々に整理され、悲しみは自然なものとなってきます。
そして、思い出せば涙するものの以前のように苦しい辛い涙から少しずつ「感情の涙」に変わってきます。
一般的にいうような「思い出」となり、辛い別れのことよりも一緒に暮らした幸せな思い出の方が多くなっていきます。
それは悲しみを忘れるという訳ではなく悲しみも苦しみも心の前面から一歩下がって心の背景となり一緒に暮らせたことによる幸せや喜びが浮かび上がってきて別れの悲しみよりも出逢えたし幸せに感謝できるようになり、また涙するようになるでしょう。

これらの段階を順番通りに経過するだけではなく、前後に逆になりながら繰り返していくうちに、徐々に心は整理されてゆき、愛するペットを喪った悲しみはやがて穏やかになってゆきます。
悲しみが癒える期間は人によって違いがあり、早く立ち直る人もあれば、ゆっくりと立ち直る人もありずっと後になって立ち直る人もおります。
すべてはその人に必要な時間ですので他の人と比べないでください。
人によっては明るく振舞っていても心は悲しみのまま癒えていないこともあれば、時間が経過するとだんだん亡くなった子のことを話しずらくなり、心の奥底に思いを閉ざして長いペットロスの時を過ごすこともあります。

それらもまだその後の出会いや経験することなどにより癒される日が訪れるものです。
こうして愛する者を喪うという喪失体験から愛する者の命から人生を教えられ気づくことや学ぶことがいっぱいあり、いろいろと考えさせらることによって、以前の自分に戻るのではなく、悲しみを知ることでひととしてより優しい人になってゆくのです。
またかなしみから立ち直ることによって強い人になるのです。
そうして、愛する者の命をその心に受け継いでいるから人は優しくも強くもなれるのです。
別れの辛さはとても大きいものですが、出逢った幸せは比較にならないくらい大きいものです。
ですから、いつか「あの子に出逢えてよかった」と、ふとそんなことに気づく日が訪れることでしょう。
見えにくいことと思いますが、あなたをよく知りあなたのことを大好きな、とっても素敵な仏様にとってあなとの心にそっと寄り添いあなたが気づく日が来ることを願っております。